Chapter 5
ナスカへ≪
Part.
2≫
プレ・インカの井戸
コンビがナスカのセントロに近づき、行き交う人の数も増えて、降り支度を始める乗客の動きがあわただしくなります。
通りに小さな店が続くようになりコンビがそのあたりの停留所に止まると大勢の人が降ります。
それと入れ替わりに、10人余りの男たちが一斉にドヤドヤと乗りこんできて急に客引きを始めます。
その勢いに、何事が起こったのかと一瞬けおされそうになります。
観光ガイドの男たちです。
矢継ぎ早に質問を浴びせかけてきます。
「ホテルは決まっているか」
「地上絵飛行は予約してあるか」
「近郊の遺跡ツアーはもう決めているか」
などなど。
いくらうまいことを言ってきても、こっちはちゃんと「地球の歩き方」を読んでヘンな客引きには引っかからないようにしてあるんだからな!
と気を引き締めて質問攻勢をかわしつつ終着のセントロまで〜。
ガイドたちは終点のセントロまでのわずかの区間をコンビに乗りこみ、観光とおぼしき客にホテルやツアーの売りこみをし〜、そしてコンビの運転手も呼び込み係りもそれを認めてガイドたちに協力いる〜それが、観光で暮らしを立てるこの街のシステムなのでしょう。
入れ替わり立ち替わりのガイドたちの質問攻勢を無視しようとするのですが、ついに抗し切れずに答えます。
「ホテルも地上絵飛行も予約してある」と。
「ホテルはどこか?」
「 Maison Suisse (マイソン・スイセ)」
「地上ツアーは?」
「これから自分で決める」
「それならいいツアーがあるから案内しよう」
「No!自分で回る。タクシーと交渉して決める」
「 Maison Suisse は自分の担当だからホテルまでタクシーで送ろう」
「自分で行く」
「タクシーの中で地上ツアーのいい方法を説明する」
「ホテルまでいくらか」
「3ソーレス」
(3ソーレスなら「地球の歩き方」とおんなじだな。地上ツアーの情報を聞いてみるか。“Maison Suisseは自分の担当”というのは信用できないけど)
「話を聞くだけだから」と私。
「 Claro !(もちろん)」とガイド。
終点のセントロに着き、そのガイドとタクシーを拾いホテルへ。
タクシーの中でさかんに地上の観光ツアーを勧めます。
言葉もよくわからない上、どうやら案内書で得た以上の情報もなさそうなので、適当に聞き流しながらホテルに到着。
ナスカでは中の上くらいのホテルMaison Suisseはこざっぱりしたコテージ主体のホテルで、ロビーといってもフロントの前に「待合室」式の小さなロビーがあるだけです。
「もう説明は聞いたからいい」と言い、チェックインのためフロントに向かう私にガイドはついてこようとするのですが、フロントのオーナーにさえぎられてロビーにも入れない。
やっぱり“Maison Suisseは自分の担当”はうそだったのです。
それでも彼は「外で待っている。ツアーの説明の続きをするから」と入り口の前を去ろうとしません。
それを無視してチェックインを済ませ、与えられたコテージに落ち着きます。
さすがに6時間のバスの旅に少々疲れを感じ、ベッドにかけて一息いれたものの、さっき入り口でこちらを見つめていたガイドの顔が頭をかすめて、どうにもゆっくりできない。
そういう強引な客引きにつきあうのが失敗のもと〜と聞いていた一方で、どうせこれからセントロまででかけてきょうの予定のポイントを回るためにタクシーと交渉するのだから、ガイドの説明だけはもう少し詳しく聞いておいてもいいか〜という判断とが交錯します。
そうこうするうち行動の方が先行して、カメラと案内書と、辞書を手にホテルの入り口に出ていました。
案の定、辛抱強く私の出てくるのを待っていたらしい彼のガイド氏は愛想よくニコニコしながら私を迎えます。
「セントロの自分の“oficina”(オフィス)で相談しよう」と通りすがりのタクシーを手際よくつかまえます。
「自分はセントロまで行くだけ」
「Si !(OK)。だけど情報が一つ。いまドイツ人の夫婦がタクシーで地上の観光ポイントを回る予定で待っている。一人でタクシーを使うと高くなるのでその夫婦と一緒に回らないか?」
(ウーン。話としては悪くないし、知らないタクシーを捕まえて自分で交渉してもどうせうまく交渉できるわけもないし〜ドイツ人と一緒ならかえって安心かもしれないし〜料金が高くなければいいか〜)
「回る所と料金は?」
「回る所は希望通りにする。料金はドイツ人夫婦とも相談して決めよう」
着いたセントロの“oficina”はメインストリートに面してはいるものの、ベンチ式のいすが一つ置いてあるだけ、脇にせいぜい一人ぐらい受付ができる小さな受けつけカウンターがあっていすの後ろの壁に古ぼけたナスカの地図が申し訳のように張ってあります。
その椅子に座って待つよう指示されます。
「ドイツ人は?」
「もうすぐ来る」
20代後半とおぼしきそのガイド氏と、ドイツ人を待ちながらとりとめのない雑談を交わします。
片言でほとんど雑談にもなりませんがこんなときの会話はたいていパターンが決まっていて「国はどこか?」「いつペルーに来たか?」「いつまでペルーにいるか?」「ペルーはどうか?」「ペルーの観光地にはどんなところに行ったか?」
といった類のものです。
途中「ドイツ人は?」「もうちょっと〜」というやりとりがあって雑談を続けるうちだんだん疑念が〜。
そしてその疑念が現実になります。
別のガイドから連絡があり「ドイツ人は具合が悪くなって来られない」・・・。
(やっぱり!)
「ドイツ人夫婦」は最初からいなかったのです。
(あんなに注意していたのにヒッカカってしまった!)
「ひとりだけでも安く回るよう、自分たちでタクシーと交渉してみよう」とガイド。
(ウーン、うまい! さすがに世界中からの観光客を相手にメシを食っている人種だ。)
もちろん、ここで交渉を打ち切って他に行くこともできます。
でももうあまり時間がありません。
せっかく午後の時間を有効に使おうと早朝のバスとコンビでやってきたのに、いままでのやりとりで相当時間を費やしてしまっています。
それにこれから新たにタクシーを探して交渉したとしてもどうせ五十歩百歩の違いしかないのは目に見えています。
(ここはひとつ腹をくくって交渉をつづけるしかない)
「自分が回りたいのは
(1)パレドネス遺跡とアクアドゥクトス
(2)ミラドール
(3)チャウチージャ墓地 の3カ所だ」と私。
「(1)と(2)は近いのでタクシーで今日中に回れる。
(3)は遠いのできょうは無理。
そこでこうしよう。
(1)と(2)はタクシーを安く交渉して今日まわる。
(3)はあした午前中にナスカを出るツアーがあるのでそれを利用したらどうか。
ツアーでは墓地のほか、昔ながらの金の精製の現場を再現した箇所とナスカの陶器の製作現場をまわることになっている」とガイド。
実はチャウチージャ墓地はどうやって行ったらいいものか考えていたところでした。
(ツアーに加われればちょうどいい、この辺で手を打とう。)
翌日はツアーバスがホテルまで迎えに来る〜という条件で料金交渉をした結果、〆て140ソーレスで交渉がまとまりました。
日本円で約5000円弱。
タクシーは1時間半〜2時間、ツアーは約半日かかりますからいかに安いか。
料金を払い領収書をもらいます。
早速ガイドは“oficina”の前でタクシーをつかまえ、ドライバーと何やら話し合っています。
話が終わって「このタクシーでOK」と乗るよう指示されます。
観光で生きる小さな町ではガイドとタクシードライバーはほとんど顔見知りなのでしょう、ドライバーも心得たもので愛想よくドアロックを外して乗るよう勧めます。
(これでよかったのだろうか)という一抹の不安は残りますが、30代半ばのわりと信用できそうなドライバーの勧めに応じてタクシーに乗りこみます。
やっと「ひとりの」ナスカツアーのはじまりです。
助手席に私を乗せたタクシーはスピードを上げてパレドネス遺跡へと向かいます。
セントロから10分ほど〜パレドネス遺跡はかつてクスコへ向かうチャスキ(飛脚)の宿だったといわれています。
遠方に見えるまばらな木立を除くと殺伐とした一面土ばかりの一帯に小高い「遺跡」はありました。
海岸の砂漠地帯では昔から建材はアドベと呼ばれる日干しレンガです。
雨が降らないこの地帯ではアドベを積み重ねただけで十分住居になります。
それだけに石造建築物と違い500年の歳月と共に崩壊し、当時の建物の保存状況はよくありません。
ほとんど建物らしき痕跡は消えてところどころにレンガを積み上げた跡が見て取れる程度です。
が、逆に殺伐とした、そうしたアドベの起伏を登り下りしていると、昔インカ帝国を支えた重要な機能のひとつチャスキが、クスコから地方へ、地方からクスコへと報告や指示を携えて往来した折に、ここで泊まって何を思っただろうか〜などと想いを馳せて幻想的にさえなります。
砂漠地帯といっても地面は黒っぽい茶色で、率直に言ってきれいではありません。
それがよけいに「索漠」感を増しています。
遺跡を登り下りする私に付き合ってくれるドライバーにいくつか意味不明のカステジャーノで質問してみますが、答えられてもほとんどわかりません。
それでも相手がそうと知ってなるべくゆっくりと言葉を選んで説明してくれるのはやはり観光客を相手にする商売として身につけた習性なのでしょう。
街での普段の生活では、言葉のわからない外国人に対しペルー人は決してゆっくりしゃべってはくれません。
パレドネス遺跡をあとにしてこんどは狭い道を曲がりくねりながら進みます。
片側に木が茂り、反対側は草の密生する間を車がやっと一台通れるかどうかの道がついています。
どこか日本の田舎の道を思い起こさせる風景です。
そんな道を進むとほどなくアクアドゥクトスに辿りつきます。
アクアドゥクトス=地下水脈の取水口です。
雨の降らないナスカでは水は貴重です。
アンデスからの地下水を利用する
術を、ナスカの人々はプレ・イン
カの時代から考えていました。
地下に水路を造り地下水を利用
するのです。
その水を汲む場所がアクアドゥク
トスなのです。
地表では水が土に吸収され蒸発
してたちまちなくなってしまい
ます。
それで取水口は地表から数メート
ル下にあります。
取水口に向かって渦巻き状につけられた道に沿って降りていきます。
辿りつくと50〜60センチほどの穴が開いていてその下をきれいな水が音もなく流れています。
手を入れてみました。
冷たくて気持ちのいい水です。
インカ帝国に統合される前、ナスカ文化は紀元前900年から紀元900年にかけて開花したという。
少なくとも千数百年以上前に造られたこの水道は、時を経て今も農業に欠かせない大切な水源となっているのです。
灌漑用としてはおそらくどこかの地点で畑へ導いて利用しているのでしょうが、直接水を取る目的でここで汲むのはちょっと大変な作業です。
自分の身一つで上り下りするだけでも結構エネルギーを費やしてしまいます。
取水口を上がったところにはナスカのProvincia (県)の職員がいて・・・
といってもこのへんでよく見かける太り気味のオバチャンが顔見知りの2〜3人とおしゃべりしながらですが「見学料」の3ソーレスを払わされます。
さすがに「観光立県」の抜け目なさです。
取水口はそこ一つだけ〜と思っていましたが、実際は水脈に沿って合計18個あります。
たぶんドライバーは説明してくれたのでしょうが私には通じていなくてわかりませんでした。
翌日の地上絵飛行の機上からそれがよく確認できました。
結果的に私が下りてみた取水口は、その中の最も下流にあるものでした。
アクアドゥクトスを終わると当日の最後のポイントはミラドールです。
いったん町へ戻り、そこからパン・アメリカンハイウェイに入って走ること20数キロ。
まさに一面の砂漠の中にミラドールはありました。
1929年に地上絵を発見したポール・コソックの研究を受け継ぎ、ナスカに半生を捧げたドイツ人の女性考古学者マリア・ライヘはここに地上絵の「観測塔」を建てました。
それがミラドールです。
当初、地上絵の「解明」にうち込んでいた彼女は、興味本意の見学者たちに地上絵が荒らされるのを見て、地上絵の「保存」こそ急務と後半生をその保護のために尽くしました。
このミラドールのそばには彼女が最後まで暮らした粗末な「小屋」が残されています。
この地方の気象条件では、午後から決まって強い風が吹きます。
私が訪れたのは午後もすでに4時を回っていました。
20メートルほどのその「塔」は「鉄を組み合わせた」だけで階段も手すりも頼りないものです。
ナスカの気象条件通りに吹く強い風に飛ばされないように、しっかり「鉄」をつかまえながらてっぺんまで登ると〜見えました!
「手」と「樹」の絵が目の前に広がっています。
「宇宙人」「猿」「コンドル」「ハチドリ」などと並んで、ナスカの地上絵として登場するあの絵です。
大げさに言えば、これを見ることが私のひとつの「夢」でした。
ですが、実のところそれほどの「感激」はありません。
マリア・ライヘの後半生がなぜか私の意識を大きく占めていたような気がします。
実際、「絵」の周辺を走る何本もの「線」を横切って車で付けたと思われる乱れた線が縦横に残るのを見るとライヘが感じ取ったであろう「危機感」が伝わってきます。
実はナスカに来てよく目にするのが“ NAZUCA LINEA ”という文字です。
私たちはどうしても「絵」のほうに関心を寄せて通常「地上絵」と呼んでいます。
しかし、地元のここでは“ナスカ・ライン”なのです。
まだその意味の解明はなされていませんが、「地上絵」の重要さは相当部分「線」にあるのです。
農耕主体のナスカ文化では農業のための暦が重要な意味を持っていてそれに関連した「線」に大きな意味があるのだとの説も有力と聞きます。
素人の大胆な推論ですが、私は「絵」は単なる「儀式」か「捧げもの」にすぎないのではないか、と考えます。
「線」こそ当時の人々にとって重要なものだった〜と。
最も長い“ LINEA ”が何キロだったか忘れましたが、その距離を正確に直線に描くのは考えれば考えるほど至難のワザだというしかありません。
ところで「絵」のほうですが、「地球の歩き方」の「(ここに登ると)あらためて絵の大きさに驚くだろう」という説明に反し、むしろ「手」などは意外に小さいという印象です。実際には、地上絵飛行であとからまた「絵」の大きさ、「線」の長さに気がつくのですが。
日程の詰まったツアーの場合、「飛行」での見学だけで終わるとき、そのときの気象条件や機内の座席の位置などで、必ずしも十分に「絵」の確認ができないケースがあるようです。
その点ゼッタイに、直接、そして間近に「絵」と「線」が確認できるのがこのミラドールです。
そして何よりもマリア・ライヘの「遺志」の重みを実感できるのも〜。
せっかくナスカを訪れるなら無理をしてでも地上からの“ NAZUCA LINEA ”の確認をお勧めします。
リマからの1日ツアーでも「飛行プラス地上コース」がセットされたものがあります。
私にとってライヘが大きな重みになったのは予想外でした。
が、ともかくこうして「ナスカの第1日」は無事?終わりました。
タクシーはミラドールからホテルまで送ってくれることになっていました。
訪れる土地ではできるだけ「そこらしい」ものを見つけたい私は、それを断りセントロでタクシーを降りました。
夕方のナスカの町を散策しながら“ Parihuera ”(シーフードスープ)とか“ Arroz con Mariscos ”(パエジャ)などの好物と“Cerveza Cuzquen~a”(ビール「クスケーニャ」)が楽しめる「町の食堂」を探して回りました。
レストランの中にまで入っては“ Tiene Parihuera ? ”(パリウェラはある?)などと聞いて回る「ヘンなガイジン」に私は見えたことでしょう。
もちろんその目的を果たし、なおかつ町に出るさまざまな「屋台」などもしっかり「ひやかし」ながら(といってもそこは見知らぬ地のしかも夜ですから、よけいな口は聞きませんでしたが)夜遅くホテルに帰り着きました。
ホテルの部屋でペルー観光地第一日目の無事を自ら“ Salud!”(乾杯!)です。
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※ 添付の写真はアクアドゥクトスです。
取水口にしゃがんでいる私を地上からドライバーにとってもらいました。
4-5-3, Honmachi, Chuo-ku, Osaka 541-0053
TEL.06(6268)4530 FAX.06(6268)4530