Chapter 1
再びのペルー
やっぱり遠かった...
2ヶ月の帰省で「里心」がついてしまい、なんとなく日本を離れがたい〜。
そんな気持ちもすこし引きずりながら着いた関空はすでにアメリカン航空のフライトのチェックインがクローズしていました。
「時間がありませんから急いでください。」という係員に重いスーツケースを助けてもらいながら機中の人となりました。
自分の席をみつけ、とにかく間に合ったことにはホッとしながら離陸を待っていました。
予定の時間を過ぎた頃機内のアアウンスが〜。
「当機はただいまコンピューターの調整のため離陸が遅れています。しばらくお待ちください。」
はじめ、大して時間はかからないだろうと気にもしていませんでしたが20分、30分と経過していくうちに不安とともにいいやな予感がよぎりはじめます。
50分、1時間、そしてついに1時間半。
経由するダラスの乗り継ぎ時間は1時間20分。
ダラスでの乗り継ぎは不可能に〜。
この時点で私の二度目のペルー行きもまたまたトラブルが確実になりました。
昨年8月末、憧れの国ペルーに向けて子供のように胸をふくらませて関空を発ったときのことを思い起こしていました。
韓国と台湾、この二つの隣国に、それも旅のベテランに伴われてでかけた以外、日本を離れたことがなかった私としては、実質初めての未知の国への旅立ちでした。
にもかかわらず、アメリカンの予定の機が到着せず、いきなり他の便への振り替えというアクシデントで私の旅ははじまったのでした。
そこは、見送りにきてくれた国際便ベテランの台湾の留学生、頼さんの手際のよいアテンドに助けられて無事JALへの振替で関空を発つことができました。
ただし、乗り継ぎがダラスからロサンゼルスに変更になること、それにともなって荷物もスルーでなくいったんロスの空港で受け取り、自分で次の飛行機に運ばなければならない〜ということになりました。
(どうやらやっかいなことになりそう〜)と思いながらも、ロスの空港がいったいどんなところで、荷物の処理や、変更になった乗り継ぎのチェックインがどうなるのか見当もつかないまま、それでもなお憧れの地への期待が優先してウキウキしていました。
12時間ほどのフライトのあと到着したロスでは乗り継ぎ時間が1時間しかなく、その間に荷物の受け取り、振替のチェックインをすませなければならないことになっていました。
第一それらの手続きをどこで、どうやってしたらいいのかさえ皆目見当がつきません。
とにかく人の流れについていくと、通路に「リマ」と日本語で書かれたプラカードを掲げているスタッフを見つけました。
「Look JTB」の10人ぐらいのツアー一行の案内でした。
(よかった!これについていけばまちがいない。)
しかしそれからが大変でした。
制限重量いっぱいの32Kgのスーツケースを2個、それにこれも制限に近い機内持ち込みの大きなバッグ〜あわせて私の体重の1.数倍の荷物をひっぱりながらだだっぴろい空港の中をさんざん歩きまわらなけらばなりません。
エレベーターでは一行と一緒に乗りきれず、遅れて着いた1階ではるか向こうに一行を見つけ人ごみの中を必死で追いつき、まわりからけげんな目でみられながらやっと目指すチェックインウンターに辿りつきます。
カウンターは団体と個人に分かれていて、個人のほうには列ができています。
(もう時間がない。個人のほうでは間に合わなくなる!)
躊躇しながらもツアーの列の最後にくっついて紛れ込もう〜と待って、やっと自分の順番が来るとスタッフが「ツアーのメンバー以外はあっちへ並べ。」と。
結局個人の列の最後尾に並びなおして待つことに。
「Lan Chile 」というチリの航空会社のスタッフは時間が迫っているのに一向に急ぐ様子もなく仲間と談笑しながら悠々と応対しています。
(出発までもう10分もないというのに!)
あせりといらいらが極限に達したころ急にスタッフが「時間がないから急げ!」と。
(オイオイいまごろ言うなよ。こうなるのはわかっていただろ!)
それまでうろうろしていたカウンターの外の案内人までもが急に世話をやきだす始末。
なんとかスーツケース二つを預けてこんどは自分自身の搭乗口へ。
ところがここからもまた大変。
案内の表示にしたがって肩の重い荷物を支えながら目指す番号へ急ぐとそのドアはもう閉まっている。
すでに出発時間は経過している!
(とうとう、荷物はリマへ。身柄はロスに〜か)と。
手当たり次第に頼りになりそうな人物を探しているとそうじのほうきを持ったアフリカ系の若者が。
片言の英語で尋ねるとチケットを見て「この上の2階へ行け。」と。
大急ぎで階段を上がるとそこにも同じ番号のドアがあり、そこは開いている。
(まだ間に合うかも!)と一縷の望みをかけてここも走る走る。
(居た!)
間に合いました。
席に座ると同時に、しばらくは放心状態。
隣を見ると「Look JTB 」の一行が楽しげに話したりしています。
あらためてこの一行に心の中で感謝してしまいました。
(もしこの一行にめぐり合わなかったら・・・。)
あれから11ヶ月。
前回のそんな光景を思い起こしながら、(今度はどんなことになるのやら?)と。
今回もまたトラブルになることが確定した後、機が離陸したのは結局予定を2時間半経過してからでした。
離陸してから13時間。
関空を夜8時前に発ち、ダラス着は時差もあり同じ日の夜7時前。
出発前の待機時間を含め約16時間の機内の旅でした。
着陸前にできるだけの情報を得たいとスチュワーデスに、ダラスでの振替便について尋ねても「到着後、地上係員に聞いてくれ。」という返事しか返ってきませんでした。
機は容赦なくダラスに到着します。
とにかく人の流れについていくしかない。
(去年とまったく同じパターンになってしまった〜)
去年と違うところは「Look JTB 」のような救世主があらわれないことです。
(こうなったら行くところまで行って、あとは聞きまくるしかない)と腹をくくってみるもののそのための英語もカステジャーノもほとんど身についていない自分にあらためて情けなくなるばかり〜。
と、うしろでなにやら「リマが〜」という声が。
ふりかえると30代後半と見られるペアが一組話しながら急ぎ足でやってきます。
もしや!と思いつつ「失礼ですが、リマにいらっしゃるんですか?」
「ええ、そうですが・・・」
(よかった!)
なんという幸運。
昨年に続いてまたもや救いの女神が。
「すみません。まったくわからないのでご一緒させていただけますか。」
「ええ、どうぞ。私たちもよくはわかりませんが・・・。」
(一人だけ迷子に…だけはこれで免れる〜)
以後は「同行三人」で各所の手続きをすることになりました。
といってももちろんいろいろな質問や交渉はすべてお二人まかせです。
お二人はご夫婦で、共に理学博士。
ご主人は清水博士で東大を経て現在富山大学の教授。
夫人のマリーナさんはドイツ人で、かつて研究のため数度にわたりペルーに滞在したことがあり、カステジャーノもかなりできる方。
清水博士は英語が相当通じそうで、合わせるとたいていの手続きは問題なし〜ということになります。
ペルーの北部にカハマルカという街があります。
美しい山に囲まれ、コロニアルな町並みを残している町です。
インカ帝国最後の皇帝アタワルパはここにある温泉に入っているところを、スペインの征服者ピサロに捕らえられました。
幽閉された部屋でアタワルパは手を上げて壁に線を引き、彼の解放と引き換えにその高さまで部屋いっぱいに金銀を集めることを約束しました。
しかし、アタワルパは最終的に処刑されてしまいますが・・・。
歴史的にも有名なこの街には国内からも多くの観光客が訪れます。
このカハマルカから車で4時間山間部に入ったところにクントゥル・ワシという遺跡があります。
紀元前10世紀から紀元50年にかけて存在したといわれる文化です。
1988年、大貫教授を団長とする東大古代アンデス文明調査団によって発掘が開始され、現在も続けられている壮大な遺跡です。
89年には大量の金が発掘され世界中に話題を呼びました。
その調査に理学の面からの検証を加える目的で清水博士夫妻が要請を受け、現地に赴く途中だった・・・というわけです。
ダラスの空港に降り立ち通路の案内カウンターで尋ねると、「リマへの客はすでに別便の手配がしてあるので、Lan Chile のカウンターに行ってくれ。」といいます。
(また Lan Chile か。 もう一度何か起こらなければいいのだけど・・・。)
カウンターで聞いてびっくりしました。
なんと、これから夜の便でチリのサンチャゴまで行き、5時間後にサンチャゴを発つリマへの便で行け〜と。
ダラス〜リマ間は6時間のフライトです。
それを9時間かけ、リマを眼下に通りすぎてサンチャゴまで行き、早朝の到着から5時間待って、さらに3時間かけてリマに戻る〜というのです。
「荷物はスルーで行くのか?」との問いには「OK」とのこと。
ダラス〜リマの直行便は1日1便しかなく、今回のようなケースでは通常、アメリカンがダラスでホテルを手配し、1日遅れの翌日便でリマへ〜というのが一般的なようです。
清水博士の推測では、ホテルの費用を軽減するために空席のあるサンチャゴ便を利用してわざわざ余分なフライトをさせるのだろうとのことです。
こちらとしても、まる1日遅れるより翌日の午後にはリマに着くという点では「よりまし〜」と了承し、振替のチケットの発行を受けて、あまり釈然とはしないまま程なく発つという Lan Chile に搭乗することにしました。
このとき私にはもうひとつのいやな予感がありました。
「清水さん。こんなにムリな振替のルートで私たちの荷物は無事一緒についてくるんでしょうか?」
「さあ、大丈夫じゃないですか。」と。
ダラス発夜の9時、サンチャゴ着早朝6時。
かくして2晩続けての機中泊となりました。
うんざりして着いたサンチャゴは冬の早朝で、空港で働くスタッフを中から眺めるとみんな分厚い外套をきて作業しています。
5時間も待ち時間があるので、思いがけず訪れることになった未知の街を散策してみたいと思いますが、なにしろ34度の大阪を出るときセーター、ジャケット類はすべてスーツケースの中、身につけているのはTシャツ1枚だけ。
とても外には出られそうもありません。
が、ここでまたまたトラブルに遭遇して、外になど出るどころかとうとうリマ便に乗るまでの5時間、くぎ付けの状態になってしまったのです。
サンチャゴのLan Chile のカウンターでリマへのチケットを見せて確認すると、なんと「Mr.& Mrs 清水のチケットは満席のためシートがない。」というのです。
「冗談じゃない。アメリカン航空のほうで『すべて手配済み。指示通り行けばよい。』と言われその通りにここに来た。第一ダラスのLan Chile のカウンターでは三人一緒に手続きしたのにどうしてMr.岡田の席だけがあって他の二人がないのか?」
「だけど事実席がない。」
などのやりとりがあったあと、さすがに「なんとかするので待つように。」とのこと。
メモを持って係りのその女性がどこかへ行った後、彼女がいつ戻ってくるかわからないので空港の中を見て回ることさえできないまま私たちは所在無く遺跡のことや南米の話題などを話しながら待つこと2時間ほど。
やっと帰ってきた彼女からマリーナさんが説明を聞いている間、清水博士と私は椅子にかけて待っていましたが、急にマリーナさんがなにやら険しい表情で私たちのところへやってきます。
「席はOK。 でも今度は私たち3人の荷物がない。」
(やっぱり!)
思わず私たちはお互いの顔を見合わせてしまいました。
今度は清水博士も加わってカウンターへ。
「荷物はどこにあるのか?」
「わからない。」
「どうなるのか?」
「しばらく待ってくれ。」
女性はまた席をたっていきます。
ふたたび待つこと1時間。
「荷物はどこにあるかわからない。ダラスでのアメリカン航空の処理の問題なので調べさせてアメリカンの係りから説明させる。もうしばらく待つように。」
(ああ、また悪い予感が現実に・・・。)
5時間もあった待ち時間はすでに1時間を切ろうとしています。
リマ便の案内も表示されチェックインが始まってもアメリカンの係り員はやってきません。
「もう時間がありません。リマについてからクレイムしましょう。」と博士。
それでも〜と、マリーナさんがカウンターの電話からアメリカンに問い合わせると「調べているがわからない。」ということです。
「仕方がないですね。」と互いにあきらめることを、確認しながらチェックインカウンターへ。
サンチャゴ空港の Lan Chile のカウンターと5時間対面したことが私のチリでのはじめての滞在となったのでした。
「荷物だけはダラスで1日遅れのリマ便に乗ってくるんじゃないでしょうか?」
「さあ、どうでしょう。」
(この際どんな形でもいい、荷物だけは手元に着くように!)
リマに着いてから私たちは迎えの方たちの助けを借りて荷物のクレイムの手続きをしました。
アメリカンの窓口に行くと、ここでは逆に「 Lan Chile の窓口に行け。」
経由ルートの最終利用便から辿れ〜ということのようです。
「荷物の所在がわかり、リマに到着したら連絡するので受け取りに来るように。」とのLan Chile の窓口の指示です。
あとはApartamentoに帰って連絡を待つしかありません。
前回は荷物のほとんどが教材で、それでも収まりきらずに別便で送りました。
もちろんどれも欠かせないものばかりでした。
今回もやはり教材を中心に、ペルーの方に頼まれた買い物やおみやげ、それに9ヶ月間のペルー暮らしで必要を痛感したさまざまな日本食など、それらがなかったら・・・。
それにしても関空の機内で離陸を待ちはじめてから、36時間。
とにもかくにもペルーへ辿りつきました。
が、ふたたびのペルーへの道のりもやはり遠かったです。
一夜あけて・・・。
旅の疲れを取る〜という気分にはとてもなれません。
もしダラスからの荷物が1日遅れでリマに到着したのであれば、もうとっくに連絡があるはず〜と電話を待つのですが一向に来ません。
また始まる暮らしのための部屋の準備などを、落ち着かない気分でしていると、昼近くになってやっと連絡が入りました。
「荷物が到着したので受け取りに来い。」
(あったか!)
飛んで行きたい気分でしたが、税関の受け取り手続きがやっかいに違いない〜とSra.坂口が同伴してくださることになり揃って空港に向かいます。
「相当関税を払わなくてはいけないかもしれませんよ。」
車の中でのSra.坂口の推測です。
(普通に到着していれば税関のチェックなどされなかったろうに〜)
受け取り場所は通常の通路とは別の人気のない入り口から入るようになっていました。
そこで同伴のSra.坂口は足止めです。
「ここから先は本人だけ。」と冷たい税関職員のことば。
職員についていくと倉庫のような深閑とした場所に何人かの職員が暇そうに話しています。
分厚い黒の表紙の重々しい帳簿をチェックしながら、スーツケースの大きさ・色・形状などを聞かれます。
それから待つことしばらく。
来ました!。
わが分身のようなふたつのスーツケースが。
これまでのことがあって、とにかく現物を見るまでは安心できない〜との思いが強かっただけに、このときは文字通り胸をなでおろしました。
(だけど気をゆるしてはいけない。ここからが税関との勝負だ。)
とりあえず帳簿に、荷物受け取りのサインを求められます。
それからスーツケースを台に乗せ、おもむろに中身のチェックです。
カギを開けると同時に、制限いっぱいに積めこんだ中身が、こぼれんばかりにはみだしてきます。
しかし、職員が期待したような高級品目があるはずはありません。
ひとわたり調べたあと彼いわく
「80ドル支払え。」
「80ドル?。なぜ?。」
「デジタルカメラが40ドル。食品が15キロを超えているので40ドル。」
たしかに頼まれてデジカメは買ってきました。
が、とにかく安く〜と探しまわって2万円ほどで買ったものです。
しかもさまざまな付属品込みで。
「デジカメだけなら150ドルもしない。それなのに40ドルは理解できない。」
「いや、40ドル。」
「それに食品は全部、これから1年間自分が暮らすのに食べるものばかり。」
「ノー。15キロを超えている。」
さらにデジカメの箱をあけて領収書を見せながら粘ること数分。
「じゃ、デジカメはいいから食品の40ドルを払え。」
(しめた、このくらいで折れるんならもう一押し。)
「食料もみんな安いものばかり。これも、これも〜。」
「ノー。食料は40ドル。」と。
こちらはガードが固そうです。
(あまり粘っていて教材に目をつけられてはマズい。)
かねてペルー通の方に注意されていました。
"税関でチェックされたら書籍類は高く取られますよ。"と。
こちらでは書籍を大量にコピーして売りさばく(むろん版権無視で。)商売が横行していることから、私用の古い本まで含めて課税対象にするのだそうです。
しかもその金額評価は職員のそのときの"気まぐれ"で、その上高めに〜。
(まあ、40ドルなら仕方ないか。)
しぶしぶポケットをさぐりながらお金をとりだそうとしていると、急に
「30ドルでいい。」
(!)
(オイオイ、そんなのアリ?)
なんかトクをしたような、一方では拍子抜けしたような妙な気分で30ドルを払います。
たしかに金目のものは何一つない。
そして貧相な日本人がカタコトのカステジャーノで必死に抗議している。
40ドルはちょっと可哀想かな〜。
そんな彼のココロの葛藤が読めそうです。
そういえば、気も強くなく、どこか人の良さそうな、ペルー人らしくない(?)その若者は、どう見ても税関の職員には向いていないんじゃないかとあらためて顔をながめてしまいました。
入り口で待ってくださっていたSra.坂口に「30ドル払わされました。」と告げると、上出来〜と言わんばかりに
「30ドルならいいですよ。 息子は以前300ドル払わされましたよ。」と。
私の「ふたたびのペルー」は長い道のりでしたが、私の「分身」である二つのスーツケースは、それよりさらに1日の長い旅を経てやっと私のもとへ辿りついたのでした。
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