Extra 1


フジモリ大統領の10年とペルー
     そして日系社会      
〜私の「フジモリ論」〜


「日本からの大統領辞表提出」という衝撃的なフジモリ政権の幕切れは、もちろん各方面に大きな波紋を投げかけました。
正確には幕切れになっていないともいえるし、また「させない」というペルー国内の一部勢力の根強い動きもあります。
昨日のテレビでもアレキーパという地方都市ではフジモリ氏のハリボテをひきまわし、気勢をあげている人々を映しだしていました。
その前日には覆面をした20人の兵士の一団が「フジモリを帰国させろ。われわれで裁く。」と要求し、大使館関係者は危険を感じていたとの
ことです。
また、身近なところでは「会館」の職員(もちろん日系人)がパン屋で買い物をしていたらペルー人から非難されたとも聞きます。
そんな情勢をうけて、日本の皆さんから心配してくださるメッセージをいくつもいただき、ひとり異国に生活する身としてやはり大変ありがたく、感謝の気持ちを禁じ得ません。
そして、そのつど簡単な現地報告をとりあえずご返事してきましたが、断片的な出来事としてだけでなく、いまの状況とともに、ひとつの区切りとして「フジモリ政権10年」の全体を私なりにまとめてご報告したほうがよいのではないか…と考えました。
以下は私の「私見」フジモリ論です。

「岡田さん、大変なときにペルーにきてしまいましたね。」
9月16日のフジモリ大統領辞任「表明」の翌日、「会館」で会う人ごとにそういわれました。
私はその半月ほど前にリマに着いたばかりで、たしかにまだここでの暮らしが地についていたとはいえませんでしたので、「そうですね。」と笑いながら応じるしかありませんでしたが、自分の中では「かといって、この事態がわかっていたらペルーに来なかったということではないぞ」という気持ちもあって、気になる事ではあっても消極的にはなりませんでした。

事態は、それより前にすでにはじまっていました。
フジモリ政権を支えていた(実際は「支える」以上の影響力をもっていた)モンテシーノス氏という人物が、国会内で少数与党だったフジモリ政権の多数派工作のため、野党議員にお金を渡し買収している現場のビデオが発覚し、モンテシーノス氏とともにフジモリ大統領も批判の矢面に立ち、窮地に追い込まれていたからです。
この時点では、辞任時期は来年に行う大統領選挙まで、ということで事態はいったん収束しかけたのですが、モンテシーノス氏の買収行為の違法性と裁判を要求する世論の高まりの中、彼がドミニカに出国したことから再び混乱が深まりました。
もはや国内に居所のなくなったモンテシーノス氏ですが、ドミニカへの亡命を拒否され、やむなくペルーに帰国した直後から姿を隠したままいまだにどこにいるかわかりません。
もともと氏がドミニカに出国できたのも大統領のさしがねだとの国内の強い批判から、彼の逮捕を要求する世論に押され、大統領自身が軍を率いてモンテシーノスの捜索をするというマンガのような事態が出現しました。

一方、軍の中にはモンテシーノス氏に対する強い支持があり、彼の居場所を確保しているのも軍関係者だとの見方もあります。
かつて猛威をふるったテロリストを鎮圧し、2万5千人いたとされるテロリストを250人程度まで減らしたとき、指揮を取ったのがモンテシーノス氏で、その実績から氏の軍に対する影響力はいまだに大きいからです。
したがって、彼の帰国で逮捕を要求する世論と、擁護する軍とのあいだでなすすべのない大統領という図式ができあがり、私はこの時点でフジモリ氏の政権維持は命運が尽きたと感じていました。
つまり、モンテシーノス氏が逮捕されなければ世論から大統領の指導力不足もしくはさしがねとして追及され、逮捕して処分すれば軍の反発を受けて重大な事態に発展する〜という図式です。

2度にわたる(1回目の選挙で得票が過半数に達せず決選投票となったため)今年の大統領選挙のしこりもあり、対立候補だったアレハンドロ・トレド氏をはじめとする野党の追及も頂点を極めていました。
その後、事態収拾のためのアメリカの介入などもありましたが、結局事態は混迷の度を深め、国際会議(APEC)を名目とする大統領の出国、経済援助要請を理由とする日本での滞在、そしてそのまま日本での辞表提出という結末となりました。
側近の買収工作発覚というフジモリ政権終結の幕開けは、この政権の性格を象徴するものになったことになります。

日本にいたとき、昨年だったと思いますが日経新聞に掲載されていたフジモリ大統領の「私の履歴書」の連載を読んでいました。
その中に、大学の学長選挙での逆転工作の話、エクアドルとの国境問題での極秘交渉、3度目の大統領選挙への出馬表明問題など随所に不透明で、なんとなくかげのある手法が出てきます。
一方では大統領就任後の明確な政策とめざましい実績によってその存在感はゆるぎないものでもありました。
その、展望を持った、当を得た明確な政策と、必ずしも民主的とは言えない手法との乖離。
フジモリ大統領に対する見方で、私の中にはこのふたつの間の乖離が大きな疑問でした。

日本からはその背景にあるものがなかなか見えませんでした。
こちらで暮らしてみて、私なりにその背景が分かったような気がします。
ペルーの政界には「政争」はあっても「政策」はない〜ということです。
その点、フジモリ政権は近時のペルー大統領の中で唯一「政策」を持った政権だったと言えます。
歴代の大統領の交代もきまって、政権の腐敗、長期的視野での政策不足が理由となっています。

それはまた、ペルーの国民性とも大いに関連しています。
長期的展望に立った判断をせず、たえず目の前の得失・利害だけに目を向け、性急に成果を求める国民性の前に、地道な忍耐を要する政策は通用しないのです。
不満がたまればすぐにそれを相手側にぶつけ、冷静で理論的な論争でなく相手の欠点だけを取り上げて追求するという風土です。
かつてペルーは遅れた大土地所有制度を維持してきました。
これを改革しようと、農民への土地譲渡を実行した政権がありましたが、このとき農地耕作の技術の教育を事前に十分行うことなく実施したため、農民は分け与えられた土地を活かすすべを知らず放棄したため農業が全体として衰退してしまったという経緯があります。

また農民自身も長い間使用人として、ただ言われたまま作業をする習慣から脱しきれず、自らの努力で農業技術を向上させるという意欲をもたず、種をまきできたものを売るという繰り返しから土地が痩せ、収穫もなくなるという悪循環に陥ったのです。
よくいわれるペルー農業の特質「ペルーでは農作物を『育てる』のではなく、『できた』ものを獲る」のだというのは、そのあたりを象徴しているかもしれません。

フジモリ政権の1代前、アラン・ガルシア政権も、南米のケネディとして颯爽と登場したものの、賃上げを要求する国民に安易に応じる一方の政策により、天文学的インフレを招き、その負担にあえぐ国民の不満を背景としたテロリストの横行を許し、自らの腐敗体質をもさらけだして国外へ逃避するというものでした。

そうした政治風土の中、フジモリ氏の政策は、いわば初めての政策らしい政策だったといえるかもしれません。
9000%を超えるインフレを克服し、テロを鎮圧し、学校教育に注力して小学校を整備し、電気・水道・道路の整備を地方まで進め、一方で、少なくとも政権就任時には「私が大統領である限り、清廉な政府であり続ける。」と宣言したことはペルー政治史上画期的な事であったと言えます。

しかしその過程で、たとえばテロの制圧では「憲法の一部停止」と強権による「国会の解散」などの強硬手段をとり国際世論から孤立する時期もありました。
当時のテロ横行の実態から見て、やむをえない側面もあったのは事実でしょう。
テロリストを逮捕しても裁判所がテロに買収されて釈放してしまう。
テロリストが刑務所の中で公然と訓練を行うのを黙認する。
また当時の憲法では裁判官の人数が決定的に不足していて逮捕者の数に対応できないといった司法制度の不備もあったからです。

そうした破滅的な状況の中、一時的に「超法規的」な処置をあえてとるとしても、それは1回きりの「超例外的」なものであるべきです。
そして、国民に対してはその理解を求め、国民的合意をたえず追及していくべきだったと思います。つまり、「政策」が正しいから「手法」は「超法規的」であってもやむをえない。
であってはいけないという問題のとらえかたです。

「超法規的」は「超民主主義的」と言い換えてもいいかもしれません。
もちろんフジモリ大統領がそんなことを理解していないはずはありません。
が、結果的には国民の合意を基盤とした政権形成でなく、多数派工作に依存し、ひいては軍の影響力を排除できないまま政権を終える事になりました。
政治危機とはいえ、一国の大統領が国に帰ることに「身の危険を感じる」状況は所詮は民主主義とは相容れないはずです。
今回の事態は結局、大統領の政治手法のツケがまわってきたといってもしかたがないのかもしれません。
この10年、思いきった政策と決断で、多くの実績を挙げてきたのは確かですが、それとあわせて、粘り強く国民に長期的展望を訴えて政策への合意を追及する「姿勢」を示す事はできなかっただろうか。
それがもし浸透していれば事態はもう少し違っていたかもしれないと、私は考えます。
もちろん、先に書いたようにここの国民性はそんなものには反応を示さないかもしれません。
それでもなお、それはすべきだったと…。
しなかったのか、できなかったのか、どちらにしてもそれがフジモリ政権の限界だったのは確かです。


ここに暮らして、もうひとつ見えてきたもの〜「日系社会」の根底に流れる意識です。
「日系社会」の中に、現代の日本人と異なる意識があるのを感じる事があります。
ひとことで言えば戦前の「家父長制度」の基盤となった意識です。
もちろん戦前の姿そのものとしてではありませんが、ごく普通のやり取りの合間にふと現れる小さな事で、しかし私はなんとなく違和感を覚えることがあるのです。
非常に乱暴で大胆ですが、フジモリ政権と「家父長意識」の結び付き。
先の「政策」と「手法」の乖離の問題を解くカギがそこにあるような気がするのです。
つまり、正しい事(最近の歴代ペルー大統領としては、初めてのまじめな「政策」)をするのだから、ついて来い〜式のやりかたです。
フジモリ氏についてよく言われていた「独断専行」「誰にも相談しない」方式です。
「ペルーでは相談していたら政治はできない。」とも言われますからフジモリ氏ひとりの問題ではないかもしれません。
しかし相談する「姿勢」もみられない(ように見える)ことはやはり体質的なものではないか〜と。
政治「手法」の点で、徹底して世論に訴える民主的な手段を避け、側近による安易な多数派工作に任せてきた、その意識の「原点」がそこにある。
これが私の「フジモリ論」の結論です。

私の結び付け方が間違っていたらもちろん私の全責任です。
それは「日系社会」に対しても大変失礼なことです。
しかし、「日系社会」の中で私が感じた違和感がここにいると、次第に違和感でなくなりつつあるのを自分自身で感じます。
それはとりもなおさず私自身が「日系社会」そのものになりつつあるからでしょう。
                                 
では、その「日系社会」とフジモリ政権とのかかわりを、フジモリ政権の誕生から終結まで順を追ってみることにしましょう。

<1> フジモリ氏の大統領立候補
これには日系人は反対でした。
第2次大戦開始時の厳しい経験があったからです。
ペルーの日系人はこの時代、南米の中でももっとも過酷な処遇を受け
ました。
幹部のアメリカへの強制退去、経営事業の没収、日系校の閉鎖、公的な場所での日本語の使用禁止〜。
もちろん日本の帝国主義に対する批判が理由ですが、もう一つの背景に日本人の経営事業が盛況であったことも指摘されています。

本来、日本からのペルーへの移民は「契約移民」としてペルーと日本の国家間の契約に基づき農業(農地の開発も含めて)に従事する事を前提に移住しました。
ところが当初伝えられていたのと異なり、とても耕作のできるような状況ではない場所であったりしたため、非常に苦労されました。
現在、ドミニカでこの問題が大きくとりあげられています。
ペルーは日本からの移民の歴史がもっと古く、そうした問題でも先駆者であったわけです。
筆舌に尽くしがたい苦難のはてに、それでも農業で成功する人もいましたが、多くは継続する事ができず、次第にリマに移り住み、商業を中心とした生業に従事するようになりました。
日系人の圧倒的多数がリマに在住する理由はそこから始まったのです。

日本人はその国民性から商業をするについてもペルー人より一生懸命働きます。
需要があっても時間になれば休む、という習慣にとらわれず、朝早くから夜遅くまで働き、いろいろな工夫も重ねて努力します。
当然、事業は繁栄することになります。
また、子弟の教育にも力を入れ、自力で学校を作りしっかりした教育をします。
当時のことを子供時代に経験された二世の方々からお聞きすると、一世の方々は本当に苦労され、がんばったのだなと思います。
そうしてペルーの社会での存在が次第に大きくなり始めると、一方で羨望も含めた忌避感がペルー人の間に芽生えてきます。
ちょうどそのとき、第2次大戦が始まり、日本排除の機運が一気に高まったのです。ペルーでの日本排斥が最も厳しかったひとつの背景がそこにあります。

その苦しい体験を考えると、日系人が政治の表舞台に立つことは非常にリスクの大きいことです。しかも国内はインフレ、テロ、生活の破綻といった破滅的な状況にあります。
大統領としてこれを整備するのは並大抵ではありません。
一方、それができなかったら、何を言われるかわかりません。
さらに、それができたとしても、かっての事業の成功と同じくそれはそれで反発もされるだろう。
どちらにしてもそんな役割は負うべきでない。
というのが日系社会の受け止め方でした。

そして実際に選挙戦が始まり街を歩いていると、ペルー人や欧米系の人から「日本人」「日本人」と指をさされたそうです。
店によっては日本人を入らせないところもあり、当然日系人経営の店のボイコットも行われました。
日本人に似ている中国人は店の前に「自分は日本人ではない」とわざわざ紙を張り出したりもしたそうです。

<2>フジモリ大統領実現と第1次フジモリ政権
それにも関わらず、1990年の大統領選挙で、それまで政治の世界ではまったく活動をしてこなかった日系人にペルーの国民が政治を託したのは、それまでのペルー人大統領にないまじめさや勤勉さを評価したからだったはずです。
黙々と苦難を克服し努力する姿勢に、人々は期待を寄せたにちがいありません。
でなければ、人口のわずか0.4%に過ぎない、政治にはしろうとの日系人に投票することはしなかったはずです。
そして、政権はその期待に応え、猛烈なインフレの克服と、テロの制圧によって国民の生活の安定を実現したのです。
「あの頃はひどかったです。停電は半日、水も出ない。白いもの、つまり砂糖・塩・米などを買うにも長蛇の列。そして朝の値段が午後にはもう上がっている、という状態でしたから。」と10年前を回顧して当時を知る人々は言います。

そうした国内の緊急の問題を解決したのが第1次のフジモリ政権でした。
選挙出馬の時点では反対した日系社会もそうした施策や実績にはもちろん賛成し、大統領夫人や大統領自身の個人的なボランティア活動にも積極的に協力しました。

<3>第2次フジモリ政権
第1次政権で国内の緊急課題を解決したあと、長年にわたり紛争を繰り返したり懸案だったエクアドル、チリとの国境問題に取り組み、これについても決着をつけました。
そして国内での長期的な課題の取り組みは第1次に続き第2次でも推進されました。
ひとつは「国のすみずみまで電気と水と道路を普及する」ことでした。
現在、ほとんどの地域にこの3つはあります。

もうひとつの大きな施策は、これはフジモリ氏の「信念」とも思われるのですが、教育の重視です。
「1日1校」を旗印に小学校の建設を進め計2000校を作ったそうです。
校舎の整備だけでなくこどもの学習環境を整える点でもそうです。
ペルーの公立の小学校には朝食の「給食」があります。
パンとleche(牛乳)の簡単なものだそうです。
なぜ昼食でなく朝食の「給食」?と思いました。
財政が乏しいので昼食まではできないのだそうです。
それでも全小学校での学習用具の無料支給とともに、これは貧困層には助かっていて、校舎さえもまともでなかった前政権時代に比べると画期的な施策です。
今年の選挙戦ではフジモリ氏の公約に「昼食の給食」がうたわれていたそうです。

リマ市内に小高い山があり市内が一望できます。
そこに登ったとき、整備された校舎をさして「ほら、あそこの学校も前はオンボロだったんですよ。」と説明を受けて「政策」の具体的な成果を実感したものです。
シニョーラ坂口の追想によると、この時期スペインに旅行したとき、スペイン人から親指を立てて“フジモリ”と好意的な支持を示されたそうです。
スペインはブラジルを除く中南米諸国の宗主国であり、いまでもそれらの国からの旅行者は多いそうですが、スペインの側からは国の名前さえあまり知られていないのが実情で、そうした中、大統領の名前まで知っているのは異例だったでしょう、とのシニョーラのことばです。
また、同じころメキシコ(かどこかとにかく中南米で)“あなたの国はいいね。フジモリがいるから”ともいわれたということです。
このころまでが政権にとってもっとも安定し、評価もされ順調な時期だったといえましょう。

しかし、政権の後半になると世界的な不況の中、ペルーでも雇用情勢の悪化や各種の規制の強化などから政権に反対する空気が強まり、「大統領3選」を禁じた現行憲法の解釈の問題とともに“第3次政権”に対しては大きな障害がありました。
現行憲法は“3選”を禁じているのですが、フジモリ派の解釈は「憲法の発効後最初の大統領選挙」からカウントするもの〜としました。

憲法発効のとき、フジモリ氏はすでに大統領でしたが、この解釈ではその後に行われる選挙が“第1期”で今年の選挙は“第2期”ということになり、立候補は可能ということになります。
一方、反対派は憲法発効時点ですでに“第1期”であり、今回は“第3期”だから立候補は認められないと主張しました。

<第3次フジモリ政権>
“3選”論争はその判定を裁判所(私の記憶)に託し“フジモリ立候補有効”との結果を受けてフジモリ氏を含む3氏による争いとなりました。
“フジモリ立候補有効”の判定を下したメンバーがフジモリ派勢力優勢だったとの議論も根強くすでにその時点で混乱の様相を強めていました。

そうした中での“立候補強行”に対しては日系社会にも疑問の空気が強かったといいます。
前2回と異なりあまりにもマイナス要因が多いことに加えて、日系社会の内部に、ある意味の構造変化も起きていたからです。

日系社会の幹部といわれる人たちの中には、いろいろな事業分野で規模の大きい経営をしている人たちもあり、いわば“経営者”の層を構成しています。
第2次政権後半の経済政策〜各種の規制など〜に対しては、日系かどうかとは別に“経営者”としての判断と評価も問われていたのです。
そうした逆風の中、あえて3選に挑み、それを実現はしましたが、結果はやはりそこにムリがあったことを証明しました。
もちろんその過程で、安易にアメリカに同調しないフジモリ政権に対するさまざまなルートでの工作や圧力もあったと思われます。

ともあれ、「日本からの辞表提出」を受けて、現在の時点では当然のことながら、「今回は立候補すべきではなかった。」ということで「日系社会」の見方もほぼ一致しています。
“第3次政権”の誕生から短期間に次々と窮地に追い込まれていく展開の各場面で、「どこでふみとどまるか」に懸念と関心を寄せながらも、ついに“もっとも望ましくない”結末を迎える事になりました。
そして冒頭に記した現在の状況となったのです。

フジモリ氏の最終行動については日系社会でも意見が分かれるようです。
「帰国して辞任の表明をすべきだった。」
「いや、帰国すれば事態はもっと悪化した。」
沖縄の地方紙「琉球新報」は厳しい主張を載せています。
「ペルーに住む日系人の苦境を思えば、帰国してきちんと辞任処理をすべきだ。」というものです。
ペルーの日系人の65%は沖縄出身と言われています。
その出身県を代表して同胞の立場を代弁したものとして当然といえます。
私もその立場に賛成します。
しかし、ペルーにいて、単純にそれでことが済むとは思えないことも考えると非常に微妙です。
ある日系人の方が言っていました。
「日本ではいろいろな事を言ってるけど、ここに来てここで判断しないとわからないこともある…。」と。
むずかしいです。

報道によるとフジモリ氏の「預金口座問題」がとりざたされているようです。
その真偽がどうであれ、ここでとりあげた「フジモリ論」の結論(「政策」の正当性と、民主的な手段を追求しきれなかった「手法」の限界…という。)は影響を受ける事はありません。
 
もちろん私としては「預金口座問題」の潔白を信じます。
もし、そうでなければあまりにも悲しい結果です。
それは「日本人」としてももちろんですが、それ以上にペルーを愛する者として、「ペルー」のために悲しいです。

もうひとつ、この「フジモリ論」を綴っていて感じたことがあります。
このペルーの状況の中でフジモリ氏が民主的な手段に徹し切れなかったとの私なりの分析に一抹の割り切れなさが残るのは、それはとてつもなく困難で粘り強い忍耐と努力を必要とするからです。

一介の青臭い市民の「民主主議論」で現実の政治が展開するとはもちろん考えません。
その「超」がいくつもつくような努力を、では今の日本の首相ならなし得ただろうか〜。
これは、「日本人」としての私の割り切れなさです。


 =追記=
「いま書かなければ〜」との思いから急いで書きました。
事実関係に不正確なところがあるかもしれません。
だいいち私自身、あとになったら「こう書き直したい…。」と思うところがたくさんあるだろうと思います。
もちろん、私の「フジモリ論」の骨子は変わることはありませんが…。
ご了承ください。
また、内容の一部は「ペルー日本語教師会」機関紙「アンデス」のペルー移住100周年記念号(2000年4月)に掲載された、元JICAペルー事務所所長 加藤進氏の投稿を参考にさせていただきました。

2000年11月28日 リマにて   岡田 勝美



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